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仏教の知恵を日常に活かすーブッダの「神は存在しない」の教えとは?

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私は市販の本やyoutubeなどで仏教を独学しています。

仏教の専門家ではありませんが、30代以降で仕事が上手く進まない、人間関係の悩み、経済的な悩みなど、生きることに行き詰まることが多くなった時、「仏教の知恵」に助けられたことがしばしばありました。

わたしにとって仏教は、死後の魂の救済よりも、「この俗世を生きるための知恵を授けてくれる」きわめて実用的な知恵の宝庫です。

私が仏教を学ぶためほぼ毎日視聴しているyoutubeをご紹介したいと思います。

菊谷隆太さんのYouTubeチャンネル(仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太 – YouTube)になります。

特に、仏教になじみのない初心者にも理解しやすい内容が特徴で、仏教の基礎的な教えや浄土真宗の考え方、信仰の重要性について、動画を通して深く学ぶことができます。

信仰の実践を通じて、人生の困難や疑問に向き合うためのアドバイスや知識を提供しています。

今回は、「神はいないーブッダの回答」を題材にした動画をご紹介します。

「神は存在しない」と説くブッダの教えは、仏教の根幹を成す思想の一つです。

西洋の宗教やイスラム教、ユダヤ教などの一神教では、神は万物の創造主であり、運命を司る存在とされていますが、仏教ではこの考え方は否定されています。

仏教では、万物は因縁(原因と条件)によって生じるものであり、神がこれを作り出したのではないと教えられます。

 

創造主としての神を否定

まず仏教において、「神は存在しない」は、一般的に考えられている「創造主としての神」の否定を意味します。

多くの宗教では、「神は宇宙・世界・生命を創造し、運命を司る存在」とされています。

たとえば、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教では、神が天地を創造し、光を作り、6日間で世界のすべてを形作ったとされています。

こうした神話は多くの文化で見られますが、仏教では万物の創造を神に帰することはありません。

仏教においては、「一切法(いっさいほう)は因縁生(いんねんしょう)なり」と説かれます。

これは、すべてのものは原因と条件が揃って初めて生じるものであり、創造主がそれを作り出したのではないという意味です。

たとえば、地面に生えている一つの草も、そこに種があり、さらに水や日光といった環境が揃って初めて生じるものです。

これを仏教では「因縁」と呼び、すべての現象はこの因縁によって説明されます。

キリスト教やイスラム教が説く「天地創造」の神話は、世界が神によって作られたとする考え方であり、これに対して仏教は、因縁による自然発生を説いている点で大きく異なります。

仏教的な視点では、特定の存在によって作られたものでもないのです。

 

仏教における因縁と輪廻の概念

仏教では、万物は因縁によって生じるとされ、この因縁は果てしなく続くものと考えられます。

たとえば、草が生えた理由を考えると、種がそこにあったこと、水や日光が与えられたことが原因となっていますが、その種自体もまた、前の年に草が成長して種を落とした結果であり、それ以前にも無限に遡る因果関係が存在します。

このように、一つの結果には無数の原因が関与しているとするのが仏教の教えです。

この因縁の考え方は、仏教における輪廻の教えにもつながります。

輪廻とは、生と死が繰り返される循環のことで、私たちの存在や生命は、過去の行い(業)が原因となり、次の生を形作るとされています。

六道輪廻とは、六つの異なる世界を指し、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界があり、私たちはこの六つの世界を業によって生き抜くとされます。

つまり、私たちが今人間として生まれているのも、過去の業が原因となっているということです。

この業の考え方は、創造主としての神の存在を否定する一方で、すべての結果は自らの行いによって生じるという強い責任を伴います。

キリスト教やイスラム教における「神がすべてを司る」とする運命論と対照的に、仏教では運命も自己の行いの結果であり、すべては自らが蒔いた種によって決まるとされるのです。

 

運命の捉え方と自己責任

仏教では、運命もまた神によって与えられるものではなく、自らの業(カルマ)によって決まるとされています。

キリスト教やイスラム教では、運命は神が定めたものであり、人生における試練や幸福も神の意志とされています。

これに対して仏教は、運命は自分の行いによって作り出された結果であり、神が関与するものではないと教えます。

日常生活において、私たちは努力や行動によって未来が開けると信じて行動します。

たとえば、勉強すれば試験に合格する、嘘をつけば友達ができなくなるなど、自らの行動が運命を形作ると考えています。

しかし、時には理不尽な出来事が起こり、なぜ自分だけが苦しい目に遭うのかと感じることがあります。

そうした時、多くの人は「神の試練だ」と捉えることがありますが、仏教ではそのような運命もまた、過去の業によって引き起こされたものであり、偶然や神の意志ではないと説かれます。

このように、仏教の教えは自己責任の考えが基本にあり、どのような出来事も自らの過去の行いが原因となっているとされます。

この考え方は、自己の努力や反省を重視し、運命を神に委ねない姿勢を導きます。

 

神と仏の違い

仏教において、「神」と「仏」はまったく異なる概念です。

仏教で言う「仏」は、悟りを開いた存在であり、万物の創造主ではありません。

仏は、宇宙や人間の運命を司る存在ではなく、むしろ宇宙の法則を理解し、それに基づいて行動する存在です。

このため、仏教では創造主や運命を操る神を認めないのです。

一方、キリスト教やイスラム教では、神は万物の創造主であり、すべての出来事や運命を掌握しています。

神が人間や動物、自然を作り、それらに役割や運命を与えたとされています。

たとえば、聖書には、神が人間を地上の支配者として創造し、動物をその食物としたと記されています。

これは、神が人間を特別な存在として創造し、運命も神が定めるという思想です。

仏教では、獣や鳥、人間はすべて同じ根源から生じたものであり、業によって異なる世界に生まれ変わるとされています。

つまり、現在人間として生きている私たちも、因縁が変われば動物や地獄の住人として生まれ変わることがあると教えられます。

このように、仏教では神の意志によって決められた運命ではなく、業(行い)がすべてを決定するとされます。

 

まとめ

ブッダの教えによると、世界や運命はすべて因縁によって生じ、創造主としての神は存在しません。

この仏教の考え方は、キリスト教やイスラム教などの一神教とは根本的に異なります。

一神教の神は万物を創造し運命を司る存在ですが、仏は万物の創造主ではなく、運命を司る存在でもありません。

仏教の教えでは、すべてのものが因縁によって生じ、運命もまた自分自身の業(行い)によって決まるとされています。

仏教における神と仏の違いを理解することで、仏教がいかに自己の行いと倫理を重んじる宗教であるかが浮き彫りになります。

 

私の感想

キリスト教の神が「万物の創造主」であるのに対し、日本の神(神道のカミ)は「自然界や生活の中に宿る多様な神々」と定義できます。

そのため、日本では仏教と神(神道のカミ)は矛盾することなく共存しています。

仏教では、行為に基づいた法則(因果律)が中心であり、結果は自らの行いに帰属しますが、キリスト教では神の意志、信仰、そして恵みが救済の鍵となります。

このため、神の裁きは必ずしも善行だけに基づくものではなく、信仰や悔い改めの重要性が強調される点で異なります。

言い方が難しいのですが、キリスト教では「信仰を持ち良い行いを積めば天国に行けるかと言えば、そうとも限らない」のです。

最終的には天国行けるかどうかは神の裁き(神の判断)にかかっており、神の意図は人間側から計り知ることはできないのです。

一方、仏教の因果律は人間の行いによる善因善果や悪因悪果を教えており、私から見れば仏教のほうが納得性があり受け入れやすいと感じます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。